創立者 ブラウン博士
開校後数年間学院の主事として遠山院長をささえ、学院の基礎が固まるとアフリカへ新たな伝道の旅に出かけた。しかし、1922(大正1)年2月現地で風土病のため召天。墓は現在のリベリアにある。
スタイワルト博士
開校にあたり、学院に勤務するかたわら日米間を往復し、募金活動に従事した。学院創立の功労者の1人である。
要覧に掲載された最初のキャンパス計画図
当時の熊本は人口7万で九州一の大都会であり、官庁や、商業の中心であったばかりでなく、教育都市として知られ、学生数も多かった。また、保守性の強い土地であったが、熊本バンドを生んだ有名な洋学校を受け入れる進歩的な都市でもあった。ここにミッションスクールとしての九州学院(九州全域のための学校として)が誕生した。その誕生に尽力したのが設立母体である米国の南部一致ルーテル教会であり、宣教師として来日したブラウン、スタイワルト両博士、そしてルーテル教会外国伝道局の要職にあったホーランド博士であった。これらの宣教師を中心に、「日本をキリストのために」との合言葉によるアメリカでの募金活動によって学院は誕生した。