おしらせ
平成21年 東京久憎会ピクニック
[2009-11-09]
成21年 東京久憎会ピクニック
東京都立青山霊園 南命山善光寺 明治神宮
首都圏在住S6/J4卒業生の会、東京久憎会(会長 小田桐 貞)は毎秋恒例のピクニックを去る10月27日(土)に 会員参加9名、夫人参加5名を得て行い、東京都立青山霊園 南命山善光寺 明治神宮 を散策しました。以下その概要と見聞・随想を報告します。
都立青山霊園
青山霊園は港区南青山にある都立の霊園です。面積は約7万9千坪で、起伏に富んだ園内に桜並木や赤松など大きな樹木が多く、緑豊かな都心の森を形成しており、1万4千の墓所に、12万人余の方々が眠っています。江戸時代には全ての人の葬儀や埋葬は幕府公認の寺院に委ねられていました。明治政府はこれを改め、明治7年(1874)寺院に属さない我が国最初の公共墓地の一つとして、青山墓地が徳川譜代の重臣・郡山藩青山氏の屋敷跡に設けられました。昭和10年(これはS6一同が生まれた年)東京市は他の東京市営墓地とともに名称を「霊園」に改めて、以来、公園墓地を目指して整備が行われ、「霊園」と「公園」が共存して、相乗的に機能する空間として今日に至っています1)。
我が国の近代史に名を残す著名な人々、近代化を援けて力を尽くし、この地に没した外国人の墓所を訪れるうち、明治以来のこの国の あゆみに 想いを致すことが出来ます。又 園内を歩けば 新しい共同納骨堂もあって、当世墓地の探索という 今回企画の目的にも叶います。
台風一過晴天の朝10時30分前に集合(写真1)、小田桐会長夫人が管理事務所から各人、各組1枚ずつの割で貰って来て下さった園内地図(写真2)付きの"歩いてみませんか歴史の森~青山霊園 時の流れが積み重なる空間~"を片手に出発。
先ず事務所裏手から'外人墓地通り'に出て日露戦争第4軍司令官 野津貫通元帥 墓所の前を通り、第1次伊藤内閣森 有礼文相の墓にまみえ、'乃木将軍通り'を左折します。春は桜並木の道になる'霊園中央通り'を横切ってすぐ左に 万葉秀歌 斎藤茂吉の墓。墓銘は只、「茂吉の墓」(写真3)。
その少し奥に堂々たる 従一位勲一等初代内務卿 大久保利通(亨年49歳)の墓(写真4)。傍らに、暗殺の際殉職した御者と馬の墓もあります。
乃木将軍通り'を進むと右側に警視庁墓地。西南戦争 田原坂の戦いで命を落とした警視隊隊員墓所です。入口の左に、キリスト教徒 磯辺家の墓があります。 近くに、警視隊を組織した大警視 川路利良の墓があり、「5代目です」と仰る中年の紳士が手入れに来ておいででした。
直角に左に折れる乃木将軍通りを道なりに行くとすぐ 紅葉尾崎徳太郎 彩文院紅葉日宗居士 明治36年10月30日行年37歳の墓。流石に いい戒名,でも37歳(今だったら36歳)だったとは・・・。
"熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人連れ"金色夜叉は 明治30年1月1日から同35年5月11日まで読売新聞に掲載された長い小説なんですね。英語では "A Golden Female Demon" とでも言うのかなと思ったら、米国に Bertha M. Clay " Weaker than a Woman: 女より弱きもの"(ミネソタ大学図書館蔵)という本があり、ここに紅葉はヒントを得たのだ ということが近年解明されたそうです2)。
金色夜叉;やっぱり日本語に限りますねー。
まっすぐ行くと、新しい共同の納骨堂(立体埋蔵施設)。 都心の緑のなかの小奇麗なマンション住まいは 魅力的です。どうすれば入れるのか、費用は?まだ聞いていませんが、今3基あって、5基設置予定の由。各ユニットに故人の名が記され、連名の墓銘碑が建っています。
'乃木将軍通り'の終点は 乃木将軍墓所(写真5)。旅順で戦死された長男 勝典中尉、次男 保典少尉に向かい、希典大将、静子夫人の墓があります。 他の将軍、顕官墓に比べ、ひっそりと家族的。 「爾霊山険なれども豈に攀ぢがたからんや 男子功名克艱を期す 鉄血山を覆て山形改む 万人斉しく仰ぐ爾霊山 」 しばし、冥福を祈りました。
ここで反転して'霊園中央通り'に戻ります。管理事務所を背に少し行くと右側に外人墓地があり、顕彰碑が建っていて: 曰く"青山霊園の「外人墓地」に埋葬されている方々は、江戸時代末期から大正時代にかけて来日し、わが国近代化に指導的役割を果たされました。
近代日本の建設に尽力された方々の偉業や功績を称え、永く後世に伝えるため、ここに顕彰碑を設立します。平成19年3月 東京都知事石原慎太郎」 よくある会社や団体の表彰状の文面そのもの、文豪であられる知事が建てられた顕彰碑でも、公的なものは こうならなきゃ しようがないのでしょうか。ここから中を見ると大きな石碑に"佛"という文字。オヤ 仏教徒がおられたのかな?と思って中に入ると墓銘碑があり、「佛人 冶部輔氏の墓」ああフランスの方か。 裏側に、ALBERTUS CAROLUS DU BOUSQET とありました。
DU BOUSQET:冶部輔 面白い と言っては不謹慎ですが、何故か心和みます。
これも人の背丈より少し大きい石碑, 通路側から見ると
In memory of Rev. T. A. LARGE. B. A. killed April 4 1880 This stone is erected by Japanese friend My meat is to do the will of him that sent me, and to finish his work. John 4,34
(われを遣(つかわ)し給へる者の御意(みこころ)を行ひ、その御業(みわざ)をなし遂ぐるは、是わが食物なり ヨハネ傳4章34節)
表に回って見ると
我之糧乃遵行遣我者○○○成其功也 約。三四 北米加奈多メソジスト派遣宣教師
学士チー、エー、ラージ君之墓
明治二三年四月四日罹兇刃没 日本人朋友 建石
(○:筆者に読めない字)とありました。(写真6)
もしか、我之糧乃遵行・・の漢字文字列はヨハネ傳4章34節の聖句かと思い、台湾出身の畏友 薛 博仁氏に 北京語聖書ではこの個所はどう書いてあるか聞き、現代中国語の口語(白話文)で、耶蘇説:「我的食物就是遵行差我来者的旨意、作成他的工。」そしてヨハネは 約翰 と教わりました。では、該文字列は日本語漢文?いや 当時の中国語文語だろうとのことです。明治6年(1873年) キリシタン禁制の高札が撤去されて17年を経て ラージ師は日本で兇刃に斃れられています。碑文の聖句から見ても きっと激烈な信仰の持ち主であられたのでしょう。
比較的小さい石碑に
IN LOVING MEMORY OF MAGGIE Mc LAREN DAUTER OF S.G. Mc LAUREN M.A. AND MRS. MARJORY Mc LAUREN 23RD MAY 1876―12THAUG.1883 (行年7歳)
WITH CHRIST WHICH IS FAR BETTER
"キリストとご一緒がずっといいよ"・・・この前には"お父さんお母さんと一緒よりも"が来るのかと思えば 胸がつまります。
外人墓地を後に、'霊園中央通り'を南に進むと左側に、東京市長、第2次山本内閣内相兼帝都復興院総裁として関東大震災後の東京の復興に尽力した後藤新平、さらに行くと 陸軍大将子爵川上操六の墓があり、都道413号赤坂・杉並線との交差点を過ぎると、明治4年の外務卿 副島種臣の墓、すこし行くとそこに、海軍中佐贈正四位広瀬武夫墓があります。
旅順港閉塞船報国丸の船室で、露都ペテルブルグで未来の夫の無事を祈る伯爵令嬢アリアズナに別れの手紙を書き3)・・・「今はと ボートに 移れる中佐、飛び来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、旅順港外 恨みぞ深き、軍神広瀬と その名残れど」今、青山の桜の木の下に在します。
南に歩いて右折して'西一七通り'を行くと'かやのき通り'に合流し、道なりに行って突き当たりに、"坂の上の雲"が「この兄弟がいなかったら日本はどうなっていたかわからない」という秋山兄弟の兄の方、好古少将の墓(秋山家の墓)があります。日露戦争で騎兵第一旅団長としてコサック騎兵を破り、日本陸軍を勝利に導きました。「一家一族、邦家の実利を挙げ、明利は放棄して速やかに閑居するを要す」と戦艦三笠にある弟真之少佐に書き送った4)という好古少将の墓らしく、われわれの家の墓と変わらぬ質素な墓が、六本木ヒルズを眺めるように建っています。
その左側に、北里柴三郎の墓、前には、物理学者 長岡半太郎の墓があります。
ここは、霊園の南端、引き返して都道赤坂・杉並線を左折して、霊園を離れ表参道に出ました。
Barbacoa Grill Aoyama で昼食
次の散策先 南命山善光寺に向かいます。
途中 高級マンション風の建物前で明るい陽光を浴び、歩道の手すりに腰掛けて楽しげに談笑する 玄白茄子びのイガイガどん とはとんでもない 見てくれのいい2~30人の若者男女。
"なんばしよっと?"と聞けば ここは酒井法子の住まいで、彼らは報道関係者、今や時の人 ノリピーが、帰って来るか、出て来るかを待っているとのこと。 平和な日本の光景です。
表参道から原宿駅に向かって右に少し入った目的地に到着したのは、すでにお昼をまわっていたため、南命山善光寺 とある石柱前で、道行く人に頼んで集合写真を撮っただけで散策は食後に回して、5分程歩き、小田桐会長設定のブラジル料理バルバッコアに於ける昼食会に臨むことにしました。
会費は男性4000円、女性3500円 メニューはブラジルバーベキュー、シラスコ とビール1グラス、ドリンクのみ放題です。 "こらうまか" "肉は当分食わんてちゃよか" (写真7)
南命山善光寺
信州善光寺 大本願上人の別院で浄土真宗の尼寺です。
慶長6年(1601年)徳川家によって江戸谷中に設けられましたが、火災に遭い青山に移されました。
本堂には(規模は小さいですが)信州と同じ戒壇巡りがあります。どうやって経営してるんだろう?と永年の会社勤めのサガですぐ考えてしまいますが、都心の最も華やかな通りから入ってすぐのところにありながら 落ち着いて、日本的な清潔感があり、 そして裕福そうなお寺です。(門前写真8) 拝観料、祈祷料等は不要、お志だけ箱に入れて・・・ということで、本堂に上がらせて頂き、戒壇巡りをするにあたって お坊さん(あとで、男の坊さんか、尼さんか、聊か不謹慎な議論に及びましたが、ここは尼寺だからきっと尼さん)からお話を聞きました。
「戒壇とは戒律を授けるための場所を言う。戒律とは出家者、在家者の守るべき生活規律であって、戒は自発的に規律を守ろうとする心に働き、律は他律的な規則である。戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所である。ここでは、そこで一切の雑念を捨てることのできる暗闇(つまり結界)の中で、壁に沿って歩けば、本尊真下に至りそこに位置した錠前に触れると、結縁 即ち仏道に入る縁を み佛と結ぶことが出来る」という話だったと思います。
暗闇には、ふた手に分かれて入りました。階段を下り角を幾つか曲がるとそこは真っ暗闇。おそるおそる ホントに言われた通り壁に沿ってひたすら ご錠前に触れて再び光の中に戻ることしか考えないからまさに結界です。ご錠前に触れられた人もあり、触れられなかった人もあり。とにかく明るいところに出られてホットしました。触れられなかった人も、"ここで手を合わせてご本尊を拝めば結縁は得られますよ"と尼さん(だと思う)のフォローがありました。
明治神宮
表参道をゆっくり歩いて10分程で明治神宮。明治神宮は今年も初詣参拝者319万人全国1でした。因みに2位は成田山新勝寺298万人です。全国では昨年12月の警視庁の推定より133万人多く、それは好天のせいと、不況の影響で"神頼み"が増えたせいだろうと分析されています。南参道を進み左折して大鳥居をくぐり、本殿前に進んで、二礼二拍手一礼の後解散。楽しい一日でした。 (写真9)
文責 幹事 尾上 賢