おしらせ
桂林旅日記
[2011-04-30]
桂林旅日記
私共 夫婦は, 例年 結婚記念日に デイズニーランドに行くことにしていますが、今年は、別の事情でその頃 そこに行く予定が出来てしまいました。それじゃ"どっかに行こう"ということになって、旅の新聞広告を見ていたら「絶景の桂林漓江下り優雅な休日 4日間」44,900円、サーチャージ3,600円というのがありました。かねて"水墨画の世界"を一度は見たいものと夫々思っていた老夫婦は、珍しく意見の一致を見て、3月31日~4月3日の このツアに参加することにしました。
2時の集合時間より小一時間も早く成田に着き、団体受付カウンタでEチケットを受け取って中国南方航空のカウンタへ行ったところ、既に長蛇の列。前には中国文字も鮮やかな 免税店のバッグを山ほど抱えた団体の御一行。向うに行ってから聞いた話では、日本への団体旅行代金は、我々の格安海外ツアのそれとあまり違わない12~13万円。しかし、300万円の保証金(勝手に滞在延長などしたら没収)が必要、そして一人が日本で落として呉れるお金は平均30万円とか。(日本人のツア客が中国で落とす金は、冗談かもしれないが3000円という。確かに我々夫婦が成田で人民元に換金したのは二人で5000円)中国からの団体さんは、十分楽しませてあげないといけないんだ と後付けで納得しました。
広州行き 定刻15時55分のCZ-386便は到着便遅延で、1時間ほど遅れるとのことで、4時半過ぎてから搭乗開始、機材はBOEING 777で、席は AB-CDEF-GH のEとF 。やれやれ 通路側から並んで座れてよかったとホットしていると、肩を強めに叩かれる。"ハテ何のコツ?" と見上げれば、昔 定めし紅衛兵だったみたいなオバサンが後ろを指さす。(よくやることだから)さては席を間違えたか?
"ミンパイ、ミンパイ" と前席の下に入れた荷物を引きずり出して立ちあがり、後席を見れば日本人らしい女の子が座っています。やおら搭乗券の半券と 席の番号とを見比べれば こっちは間違ってない。そこで "是我們的座席。看你的搭機票" とデタラメに言ってやったらソソクサと消え去りました。ややあってC, D 席に座った人を見れば先刻の もと紅衛兵女史 の二人連れ。 にこやかに"ニンハオ、ニンハオ"。結局広州への到着は1時間半ほど遅れ、桂林行き最終便への乗り換えは、大忙し、一人二人何処行っちゃったか分からない人、パスポート落としたのにケロットしてる人などあって、添乗員の篠原さんは大忙し、どうやら間に合って隣を見ればもと紅衛兵女史でハイタッチ。
夜半に、熊本の姉妹都市、雨上がりの 広西壮(チワン)族自治区桂林市に着き、ツア一行32名は、専用のバスで立派な高速道路を走り、ホテルに向かいました。 広州で出迎えてくれた現地ガイドさんの自己紹介、「クツと言います。履くクツではありません。退屈のクツです。」若しかと思って、降りてから聞いてみると、楚人屈原正則の後裔75代目とのこと。 屈原と言えば、九学S1年 栗林先生の漢文の時間、予習してなかった白文の朗読を当てられ、その次の字が読めず "屈原曰く、屈原曰く"と何回も言うてしもた。この名は一生忘れないのです。ここでその75代目に逢おうとは。この 屈向葵氏 は先祖に恥じぬ教養人でした。前から知りたいと思ってた 中華人民共和国に於ける "省" と "自治区" の違いを聞いたところ、後者はその居住地域における少数民族のもので、最高裁判所を持ち、省は最高裁については 北京に行かねばならぬ・・・ということでした。 The Fortune Condominium Hotel;日本資本で、その名の通り、もともと豪華マンションとして建てられたものの転用で、一部屋に2ベッド・ルーム、24時間NHK放送が見れるテレビが2台、キッチン付きで、こんな広い部屋に泊まったことがありません。
4月1日 七星公園、大墟古鎮
七星公園は漓江の東に広がる桂林最大の公園。四つの峰が聳える普陀山と三つの峰が擁する月歯山、合わせて七つの峰を持ち、その並び方が北斗七星に似ているところから七星公園と呼ばれるようになったと言われます。キップの裏には 天上北斗 人間七星・・・早在一千多年前的隋唐時代、遠里已経成為遊覧勝地・・・ああ そうですか。ここの目玉は 何と言ってもパンダ。至近距離で、ゆっくり見ました。以前には 野外でのトラのラインダンスがあったそうですが、どっかで事故があって,今は ここに乗って踊ってたという台があるだけ。孫悟空のモデルになったという猿も居ました。
1元約150円ですから、パンダにエサやると7,500円の罰金。高いのか安いのか。
次に行ったのは大墟古鎮。鎮とは:都市よりも人口の少ない人口集中区域で、給水、電力供給、下水などの公共インフラや教育、飲食、娯楽、市場などがまとまって集中し、周辺の地域に経済作用を齎す地域をいい、住民の多くは農業以外に従事する。大墟は:漓江東岸に位置する広西四大鎮の一つ、宋代に興り、民・清代に発展し、民国の時代に繁栄を迎え、現在までに1000年の歴史がある。古鎮の南にある明代に建造されたアーチ石橋の万寿橋があり、石橋の西は漓江で、漓江対岸の山を望むスポットである。 Wikipediaより。
又、長く続く石畳の道沿いには、清代に建てられた高祖廟、漢公廟、広東、湖南、江西会館などの古建築のほか、黒い瓦で葺かれた民家、竹編工房、ゾウリ工房、草医診療所(民間診療所)、理容室などの古店舗なども残っている・・・。
その通りでした。町長格の家族が今も住む家の参観等、屈原正則75代目の説明が冴えます。電信柱はなくて、配電は地下ケーブル、テレビはこれも地下の有線で何十チャンネルも漢文字幕付きで見れる、この辺は、東京の郊外なんかよりよっぽど・・・、ところが家にトイレと云うものがない、北京の胡同にあるような共同のものもない。その代わり、近くに川(上記の万寿橋が架かってる坪井川位の川)があります。中を見せて貰った家を出たところで、ザーッと雨。バスまで走りました。
午後は蘆笛岩の観光。ここは1959年発見された(数百年前から地中から煙が噴き出す妖しい場所としては知られていたという)大鍾乳洞。
屈さんによれば、桂林に見られるカルスト地形は更に南へ伸びていてベトナムに及び、もっともっと大きくはかり知れぬ数の鍾乳洞が地中にあると言います。バスを降りてフーフー言いながら、300m位の山道を登り中に入るとその規模に息を呑みます。秋吉台を知っていても一寸想像できませんでした。観光客が辿る見学コースは500m程と言い、高さ10mもあろう鍾乳石、石筍、石柱が見られます。
夫々に、龍隠石、水晶石とか田園風景とか名前がつけられているのは まだいいとして、頂けないのは、入場券の裏に、「夢幻七彩、"蘆笛・天籟"是結合了視覚、听覚、嗅覚等多種感官効果為一体的特色灯光演繹、以夢幻般的灯光淋漓尽到的詮釋了蘆笛岩的美、・・・」と書いてある7色のライトアップ。余計なお世話と言わなければなりません。おまけに七星岩のところではレーザー光が天井にチーカチカ。自然世界遺産登録の可能性と引き換えてまでもの、観光用加工が惜しまれます。水墨画の風光で知られた桂林に来る人々がこういうのをいいと思うと期待するのかなー。
お次は杉湖の湖畔の小島に立つ観光塔 日塔,月塔へ。
なかなかいい眺めです。ここはスリが多いです。"皆さん、財布、カメラ気を付けて!物売りの相手にならないで下さーい・・・"と叫ぶ屈さんに従って降りた一行のうち、Video 撮ってた小父さん(日本人にしては大男)が、手首に下げてたストラッツプをハサミで切りとられ マンマとデジカメを盗られました。全く手練の早業。罪を恨むより なんとも可笑しい。聞けば集合写真撮ろうとタイマー仕掛けて後ろ向いて駆け出したスキに、サッと三脚ごとカメラ持ち去られた人が居られるとか。写真撮るか、カメラ盗られるか、ドロボーさんと観光客のゲームですね。ここの物売りは、コドモの花売りが多い。親のヤラセだとか。
屈さん 付きまとう子供 抱きかかえ、日本語で「キミね。ガッコ行きなさい。」
桂林名物ビーフン(ああこれが・・・という程度の印象)の夕食後 はオプション(\3,500/人)のナイト・クルーズ:漓江に夜乗り出して夜空に浮かぶ山々のシルエットでも眺めるのかと思っていたら、榕湖・杉湖畔を遊覧船で巡る。きっと西太后が頥和園でしたように、こういうの 宮廷の趣味なんでしょう。
ライトアップした世界有名建造物のレプリカ(中には本物の橋が夜電飾でそのように見えるようにしたものもある・・・ゴールデンゲート・ブリッジ、錦帯橋等)を見るのです。「熊本城もありますよー、どうですか? 似てますか」 「似とらんねー」 「そう、いつか熊本のお客さんで、怒り出した人がいましたよ」
クルーズの中ほどでは鵜飼をやってました。獲れているのは鯉。ここの鵜飼の面白さは 鵜に ヒモをつけて鵜匠が握っているのでなく"放し飼"であること。魚を獲った鵜が どうして戻って来るのか、舟の上に親分の鵜(こやつは水に入らない)がいるから。屈さん「ご婦人がた、お宅ではどうですか―」吾人思うに、鵜にもプロレタリアート一党独裁の 社会主義思想が浸透してるに違いない。
4月2日 漓江下り陽朔・高田郷
この旅のハイライト漓江下りです。桂林は4億年前は熱帯の海の底で、珊瑚や微生物が海底に積もって厚さ1kmの石灰岩が形成されました。地殻変動や隆起によって、海底が陸地になりました。そこに雨が降り注ぎ、水に溶けやすい石灰石は浸食作用によって解け始めて、現在、今見るような地形になっていると言われます。川の水の浸食によって山肌が削られ、内部に穴が出来ました。水位が下がり、洞窟となって水上に現れたのだそうです。
B.C.221年 天下を統一した秦の始皇帝は、さらなる領土拡大を見ざして南方に進軍しました。険しい山々によって物資の輸送に悩まされた彼は、10万の兵を動員して運河を作りました。運河の完成で ようやく中国南部を制圧することが出来て、漓江の沿岸に南方拠点の町を建設、これが現在の桂林です。20世紀(1934~35年だから 熊本ではS5, S6が生まれた頃)に到って毛沢東は、始皇帝と逆方向に、同じく10万(民兵を加えると15万とも言われる)の解放軍兵士を率いて江西・福建にまたがる中央革命根拠地から陜西省西安(唐の都長安)の北 陜北根拠地まで"長征"を敢行し、桂林の北を通っています。
近年の、中国南部における旱魃、水不足は深刻で、漓江の水量は年々少なくなり、この川下り観光ができるのもあと数年ではないかと危惧されています。そしてこの冬も雨が少なく、本来 桂林市により近い竹江船着き場から約60Kmを6時間ほどかけて下るべきところ、もう少し下流から乗船し、途中の九場画山で折り返す航程になりました。「でも皆さん 景色いいところ、墨絵に描かれるところは見れますから心配いりませんよー」
船は80人乗り、我々の他にも日本人の団体は一つ二つ、それにアメリカ人(と言っても、どっちかが中国人らしい夫婦が多い)団体が乗っていました。満席です。桂林は水墨画の世界というものの、その題材の山水を写した写真では、あまりいいという印象を受けたことはありませんでした。
大きさの表現が難しいからでしょうやはり実物は素晴らしい眺めです。(桂林の景色は雨の日に限るという人もいますが)心配された雨でなく、かといってカンカン照りでもなく誠に結構な天気でした
両側、前方に尖がった山山、岸には少数民族(壮(チワン)族でしょう)の暮らし(デイズニーランドの大陸横断鉄道から見る景色みたい)が見え、漓江下りのハイライト、人民元20元札図柄 の辺りで今日はUターン、そのあと停泊して食事になりました。写真 漓江遡航は、船首を返して川を遡る同僚船。船尾にキッチンがあって、食事はここで調理されて船室に供されます。左に見える赤いバケツ。これで水を汲みあげて・・・・。
出港地、この日の終点に近づき、桟橋につける順番待ちか、岸に寄せて停船していた時のこと、立って歩くのもヨタヨタのお婆さんが、竹を並べて作った筏に乗り込み、アラ大丈夫かなと思ってるうちにこちらに向かって漕ぎだして来た。うまいもんだ、山水をバックに、絵になる光景 と思ってたところ、数多の男達が一斉に漕ぎだして来ました。そして、こちらの船の舷側に取りつくや、窓ガラス越しに2本指(2000円という意味か)や3本指を立てて 瑪瑙に見える石で彫ったトラや龍を突き付ける。「見ないで下さーい! 窓あけないで下さーい!」と方々から日本語のガイドさんと思しき声。そのうち指の本数がだんだん減って行き,自主的price downかと思ううち、誰がどうやったのか、窓が開いて、次から次に乗り込んで来てしまいました。"これ2000円"、"これ100元"、"1000円だよ1000円!" ニワトリ小屋にネコが飛び込んだみたいな騒ぎ。それも一瞬で、フィレンツエやピサの偽ヴィトン売りのお兄さんみたいに怖くはない。やっぱり同文同士の東洋人なんです。 結局 広げると1.5mはあろうかと思われる大扇子(first offer はたしか2000円)を買った小父さんがいました、今頃、日本のどこかの家で 床の間を飾ってることでしょう。
上陸を果たし、使ったトイレに関する論評に花を咲かすうち、バスは陽朔西街へ。陽朔は桂林の南東83km、普通は漓江下りの終点で、ここも奇峰、奇岩に囲まれた風光明媚な街です。
ここ西街には清代に作られた古い街並みに、ホテル、土産物屋、西洋料理店があり、欧米人に人気があると言われます。一泊1000円で、小奇麗なダブルの部屋に泊まれるとか。 "エーッ 今度子供連れてここに泊まろうか"
写真は、最近まで寺だったフランス料理店。お寺さんが レストランに売っちゃったんだそうです。 看板は "法式餐廰".次に行ったのは樹齢千年のガジュマルの木がある古榕公園。横に伸びた枝から、下に向けて枝が伸び地面に達し更に地中に根を張っています。写真でつっかい棒に見えるのがそれ。
ツアの最終観光は、田園風景が広がる高田郷。バスを降りたのは工農橋という橋の近く。橋の両側、まさに いい景色。写真は15元/lのガソリンスタンドから見た月亮山。ホントに月が出たみたいです。
4月3日 桂林―成田
桂林発7:30 の中国南方航空CZ3231便に乗るために、ホテルのモーニングコールは5時。出発は5時40分。朝食は弁当。一昨年のタイ・カンボジャ旅行の時、同じような早出で、出た弁当が コンチネンタ風2段重ねで凄かったので、今回も期待していたところ、パンが2個とバナナ1本で little bit disappointed. でも搭乗はスムーズ、広州に定刻到着。ここで ガイドの屈さんと "再見 再見"、
"ザイチェン、ザイチェン"。アメリカ程厳しくないsecurity check, 全く無表情のお姉さんの出国管理を無事に通って、あとは成田行き10:20 CZ385に乗ればいいということで、皆さん最後の買い物に散りました。 我々夫婦は 今回 お互い"何も買わない"とう取り決めがあった(何しろ2人で5000円しか換えてない)のですが、私には、欲しいものがありました。40年前 文化大革命の余熱冷めやらぬ頃 北京に仕事で来て毎朝講義を受け 今は懐かしい赤い表紙の毛沢東語録。予想はしていましたが、それがなかなかない。蘆笛岩の土産物屋と、陽朔の露店に英語だけ("エイゴ読ムイイヨ"と言われたが、こればっかりは英語では何の感慨もわかない)で日本語はおろか、中国語もない。そこで"若しか"と思って搭乗ゲートに近い書籍・文物店で見たら 大冊556頁の中国語 「毛沢東伝 最新版前繹本」50元と言うものがあり、めくって見ると もう一度見たかった、絵図・写真 詩詞が出ているようなので買いました。 今 中国では "神となった"(屈さんの話)一代の革命家 毛沢東 おそろしげなイメージですが、語録の巻末に収録されていた詩は、まことに印象深いものでした。ヒコーキの中で、思い出そうと願っていた目当ての詩を見つけました。 泌園春 雪 1936年2月。 以下はその後半です。(買った本は現代中国文字で書いてありますが、日本語WORDにない字は、もとの字を類推して当てはめています。
江山如此多嬌、引無數英雄競折腰。
惜秦皇漢武、略輸文采;唐宗宋祖、稍遜風騒。
一代天驕成吉思汗 只識彎弓射大雕。
倶往矣 數風流人物、還看今朝。
江山は 此くの如く いと あでやか なれば無数の 英雄を 引き 競ひて腰を折らしむ。惜しむらくは 秦皇 漢武、およそ 文才に欠け、唐宗 宋祖 やや 風雅に劣る。一代の 天驕 成吉思汗、只だ 弓を引き絞りて 大鷲を 射るを知るのみ。みな 過ぎにけり風流 人物を 数へんには、なおもまた 今朝を見よ
私が最初に行った外国(当時は香港経由でしたが)は1965年の中国でした。その後、仕事で何十回か行き(観光は今回で2回目)都度、人に逢い"今朝の中国"を見て来ました。仕事を離れて5年、あと行きたいところは2か所です。この旅日記のハードコピー版を、地域のサークル仲間(シニアの女性)に読んでもらったところ、"あんた中国好きなんだね" と言われ、"やっぱりそうなのかなー"と思いました。
2010年4月12日 東京久憎会 S6 尾 上 賢