おしらせ

未来へのメッセージ 元五輪競泳選手・吉無田春男氏(S10回)

[2016-09-09]

dc05a44b5a05548496e32e7ba88e0990.jpg九州学院105年・未来へのメッセージ

「目標を高く努力続ける」 

毎日新聞2016年9月4日 

元五輪競泳選手・吉無田春男さん(76)

 <1960年のローマ五輪、64年の東京五輪に競泳で連続出場しました。しかし、九州学院中では野球部に入るつもりだった>

 山江村で幼少期を過ごし、人吉東小学校の時は近所に「赤バット」で有名だったプロ野球巨人の川上哲治選手の生家があったこともあって、野球選手を夢見ていました。九州学院出身の父の勧めで中学から入学しましたが、面接の時「野球部に入りたい」と言ってしまった。後で中学に野球部がないことを知り、部員を募集していた水泳部に入りました。野球部があったら違う人生だったかもしれないですね。

 <球磨川で泳ぎを覚えた>

 小学生まで球磨川の支流や本流で泳いでいました。梅雨時になると増水した川の流れが面白くて、中学生と一緒に泳いでいました。だけど、危険だと近所から小学校に連絡が入り、翌日、校長室で怒られたこともありました。その頃から水に親しんでいましたね。

 <中学3年になり、水泳部の練習が劇的に変わり、水泳人生が大きく動き始めた>

 中学3年の時に水泳部の先生が変わりました。僕らより7歳年上の故・松永俊一先生です。松永先生は水泳を知らなかったんですが、本を読んだりして熱心でね。厳しい練習も課されました。それまで泳ぐ距離が1日1000、2000メートルぐらいだったのが6000メートルとかに増えました。冬も水前寺公園まで走り、薪で体を温めてから泳いだりしていました。江津湖で合宿もしました。練習量に比例してタイムも伸びていきました。

 <厳しさだけでなかったことも大きい>

 松永先生は育ち盛りだった僕らのため、寮での食事後、宿直室で白米を食べさせてくれました。だご汁と漬物も一緒に。食糧もまだ豊かではなく、麦飯が多かった時代です。先生の給料の大半が僕らの食事に消えていたんじゃないかな。学校の雰囲気もおおらかだったのが良かった。「悪いことは悪い」と一喝されるが、先生は生徒を信頼し、一人の大人の人間として扱ってくれていた。だから生徒も先生たちを信頼していました。

 <水泳人生を振り返り、努力の大切さを実感している>

 目標は高く持って、努力し続けること。努力に勝る天才なしと言いますが、まさにその通りだと思います。頑張らないで結果ばかりを求めてはダメ。大学を卒業して3年後の東京五輪を目指した時、「次に五輪が東京なら絶対に出らないかん」と思っていました。当時は選手としてのピークを過ぎた年齢でしたが、目標を持って努力したから、五輪に連続出場できたと思っています。

 <8月のリオデジャネイロ五輪は日本勢のメダルラッシュに列島が沸いた>

 若い選手らはテレビにかじりついて観戦し、胸をときめかせたと思う。東京五輪が目標になった人も多いだろう。若い選手の4年後の活躍が今からとても楽しみです。【野呂賢治】


 ■人物略歴

よしむた・はるお

 1939年生まれ。山江村で幼少期を過ごし九州学院中に進学。卒業後は早稲田大に進み、大学3年でローマ五輪のバタフライで5位入賞、社会人3年目だった東京五輪には自由形で出場した。               ユシアード大会では通算6個のメダルを取得した。