おしらせ

木庭監督、日本代表の団長としてモンゴルへ!

[2019-11-16]

九州学院ボクシング部の木庭監督(日本ボクシング連盟理事、県ボクシング連盟理事長)は、モンゴル・ウランバートルで行われている、ボクシングの『アジア・ユース選手権』(11/8~18)の日本代表選手団団長として、5人のスタッフ、コーチと共に現地に滞在中です。

 去る11月8日、15日の熊日の朝刊の「くまもと五輪物語」には、モスクワ五輪の日本代表に選ばれながらも幻に終わった木庭監督のことが書かれています。是非、ご覧下さい。

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(2019年11月8日付 熊本日日新聞朝刊掲載)

 【くまもと五輪物語】木庭浩一(上)ボクシング 幻のモスクワ代表 名伯楽とつかんだ夢も...

  1980年夏、モスクワ五輪が開かれた。社会主義国で初めての大会だった。モスクワが首都だった旧ソ連は79年末にアフガニスタンへ侵攻。米国など西側諸国が猛反発し、同調した日本は5月24日、ボイコットを決めた。わずか1カ月前にボクシングのフライ級代表の座を手にした木庭浩一(61)は、不参加の報に立ちつくすしかなかった。

 「オリンピック、なくなっちゃったんだ。心がぽつんと取り残されたみたいな感じがしたのを覚えている。涙も出なかった。そんなに悔しいとも思わなかった」

  幼少時は小柄でひ弱だった。父親の浩さんの勧めで小学3年で柔道を始めると瞬く間に上達し、5年で県大会優勝。オリンピック出場を本気で考え始めた。だが、強豪の九州学院中に進み、要領だけでは勝てないことを思い知る。中学2年の秋、父親の知り合いだった故田中信夫が監督を務める九州学院高ボクシング部で高校生に交じり、サンドバッグをたたく人生を歩み出した。

  「最初の半年くらいは雑誌を見て、練習場の隅っこでひたすらシャドーを1人繰り返していた。まだ打ち合っていなかったので怖さを知らなかったのもあって練習は楽しかった。中学3年の秋に田中先生に『(県高校)新人戦に出ろ』と言われ、高校生と偽って(最軽量の)モスキート級に出場したら、いきなり優勝。ただ、翌日に顔がものすごく腫れ上がり、『このまま続けたらオレ死ぬかもしれない』と少し嫌になった」

  この体験が後の「打たれずに勝つスタイル」の原点となる。1週間後の九州高校新人戦で準優勝。高校1年になった73年5月、熊本代表として沖縄特別国体に出場し、団体決勝で地元沖縄に敗れた。自らがグローブを交えたのは具志堅用高。3年後にWBA世界王者となり、13度防衛した天才に判定負けしたが、1度もダウンはしなかった。

  「前の晩に対戦を告げられ怖くて眠れなかった。ただ、具志堅さんを相手に3ラウンドを戦い抜けたのは自信になった。どうしたら打たれないで勝てるか、ひたすら研究した。相手と距離を取り、足を使ってパンチをかわし、カウンターを的確に打ち込む。要するに要領のいいボクシング(笑)。結局、高校時代に負けたのは具志堅さんと対戦した国体とインターハイの決勝、それとアジアジュニア選手権の決勝だけだった」

  高校時代は国際大会を含め50勝3敗。堂々の戦績を引っ提げて76年春、名門日大へ進む。その年のモントリオール五輪代表は逃したが、大学2年でライトフライ級、4年時はフライ級で全日本選手権を制覇。日本連盟の計らいで79年に名伯楽の故エディ・タウンゼントが専任トレーナーに就き、二人三脚でモスクワ代表への階段を上っていく。

  「エディさんは人間味あふれる人だった。セコンドで『次、倒せるよ。倒しなさい』とささやかれると、その通りの結果になる。まるで魔法にかけられたみたい。『この人に認められたい』と思ったら、どんどん強くなれた」

  代表選考レースの終盤、最大のライバルがプロに転向する中、大学を留年して孤独と戦いながらミットを打ち続け、五輪を待った。だが、米ソの対立で生じた巨大な国際情勢のうねりが目の前まで来ていた夢をのみ込んだ。(坂本尚志)

 ◇こば・こういち 1958年3月10日生まれ。熊本市出身。九州学院高、日大卒。高校2、3年のインターハイで優勝。日大2年で全日本選手権とアジア選手権、4年で全日本選手権を制した。80年モスクワ五輪のフライ級代表。82年に全日本社会人選手権で優勝し、その後のインドネシア大統領杯を最後に引退。アマ生涯戦績は173戦155勝18敗。96年から九州学院高の監督を務める。弟の浩介さん(59)は埼玉・花咲徳栄高ボクシング部の監督として元世界王者の内山高志らを育てた。

 <2019年11月15日付 熊本日日新聞朝刊掲載>

【くまもと五輪物語】木庭浩一(下)

 ボクシング 大けがでプロ断念、指導者へ 成長の瞬間に立ち会う

2019/11/15 09:46 (JST)

練習でミット打ちの相手をする木庭浩一。県ボクシング連盟理事長として県全体の競技普及、底上げにも目を配る=熊本市の九州学院高(高見伸)
 1980年のモスクワ五輪。ボクシングフライ級代表だった木庭浩一(61)は、日本のボイコットで夢舞台に上がる道を閉ざされた。あらがえない力によって夢を絶たれた無念は、澱[おり]となって今も心の奥底を漂う。

 「リングに上がろうとするけど、相手の顔がぼやけて分からない。シューズやマウスピースがなくてリングに上がれない...。そんな夢を何十回と見た。『また、この夢か』と思っている自分もいる。代表に選ばれたけど、モスクワに行っていない。結果が出ていない。ずっともやもやしたまま、ここまで来たのかもしれない」

 ボイコット決定直後の五輪不参加国によるギリシャでの国際大会で優勝。世界レベルの実力を誇示した。五輪を控え、1年間指導を受けた名トレーナーの故エディ・タウンゼントからはプロ転向を勧められた。プロかアマか-。思いが揺れ動く中、熊本県連盟に請われて出場した栃木国体でボクサー人生を左右する大けがに見舞われた。

 「第1ラウンドでパンチをもらったら口内出血が止まらない。唇を閉じ、あふれる血を飲み込みながらファイトした。優勝して病院に直行。あごの骨が2カ所折れていた。プロは諦めた」

 日大を卒業して帰熊し、九州産交運輸に就職。82年の全日本社会人選手権を制し、その後のインドネシア大統領杯を最後にリングに別れを告げた。10年余りのサラリーマン生活を経て96年、38歳で母校九州学院高の監督に就いた。強豪校として8人のインターハイ、国体王者を輩出したが、2005年に部員が練習中に倒れ、亡くなる事故が起きる。

 「若い頃は子どもたちを強くしたい、五輪選手を育てたいとの思いが強かった。勝利至上主義に走った面もあった。でも事故を境に教え方への考えが変わった。トップに立つには一線を越えるような練習も必要だと分かってはいるが、今は力のある生徒も、そうでない子も同じ目線で指導する」

 近年、日本のアマチュアボクシング界は不正判定疑惑や助成金の不正流用に揺れた。世界的にはガバナンス(組織統治)の欠如などで東京五輪の実施競技から外されかけた。国体では23年以降、隔年開催競技へ格下げになった。昨年の体制一新に伴い、日本連盟理事に就任。17、18歳のユース世代の強化を担当すると同時に、イメージアップに心を砕く。

 「レフェリーのジャッジで会場の雰囲気が変わったら、判定が間違っている時。観衆が勝ったと思った選手が勝つ試合にならないと。何より、勝敗は戦った者同士が一番よく分かっている。駆け引きの妙や技のすごさ、試合に臨むための厳しい体調管理など、ボクシングの面白さをもっと多くの人たちに知ってほしい」

 一時遠ざかった時期もあったが、半世紀近くボクシングと関わってきた。

 「リングからは身震いするような感動をたくさんもらった。勝っても、負けても、選手の動きから彼らの心が見えてくる。そして、ちょっとした成長の瞬間に立ち会えた時が一番うれしい。ボクシングと出合えて良かった」

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