おしらせ

種子島氏(S6回) が著書「チャレンジ!我が人生」を寄贈

[2020-08-26]

九学卒業生でBMW東京()元社長の種子島経氏(S6回・1954年卒)の著書「チャレンジ!我が人生」が学校に届けられました。

種子島先輩は1994年に母校九州学院でご講演を頂いたここともある九州学院の大先輩です。著書にはシゲシャン(重武先生)から叱咤激励されて猛勉強の末に東大に合格したというエピソードなど九学時代の懐かしい思い出が語られています。

現在もLive door ブログ [明石暮らし]に執筆されるなどご活躍をされています。

 Live door ブログ [明石暮らし20200516

「シカゴで巡り会った大先輩」

我々60名が1960年4月入社した川崎航空機工業(現川崎重工業)は、戦争中軍用機ばかり作っていました。戦後、航空機生産を禁止されたため、色々作ったのですが、その一つがバイク。だがこんな製品を売るノウハウがなかったため、国内占拠率2%前後、いつも赤字でした。    1966年、我々30代の若手が、これをアメリカで売ろう、と渡米することになりました。この話のシカゴの部品会社が第一歩で、同年11月ロサンゼルス、翌年7月ニューヨークと、英語もわからないまま直販会社を設立、色々工夫して、ヤマハと占拠率二位を争う様になり、我々が企画したアメリカ向けバイクは欧州、日本でも好評で、バイク部門は川重の利益部門になったのです。

1966年1 26日米国着。ロサンゼルスで数日過ごしてシカゴへ。ここでカワサキの部品会社設立の仕事を手伝い、31日創立パーティ。まだ米国の知人も少ないから、来客の殆どはシカゴ在住の日本人、私は受付の役を勤めていた。やがて現れた日本人。40歳がらみの紳士で、三井物産の名刺を出し、「ジーンがお世話になっております。成松です」。それが間違いなく熊本訛りであることに、「失礼ですが熊本出身ですか?」「はい、熊本です。九州学院です」。これには驚いた。シカゴの地で九学の先輩に会うとは!受付の役を他の日本人に譲り、二人をテーブルへ。「クラス担任は?」「川瀬清先生でした」「私たちの院長でですたい」。二人の熊本弁は取り止めなく続き、日本語はあまりわからないジーンは、ニコニコ笑いながら聞いている。私は仕事を忘れて座り込み、ジーンは時々食物や飲料を運んでくれた。やがて二人が帰るとなると、私は一緒に立ち上がり、二人のアパートに同行した。そこでバーボンとビールを鯨飲した。先輩は、九学中学を卒業して渡米、戦争中は例の施設に収容された由だが、ビジネスにも米国にも通暁しておられ、やがて、物産で手がけておられる機械関係の商社を立ち上げたいご意向のようだった。お互いに忙しいので、お会いすることもなく、そのうち私はカリフォルニアへ転勤することになった。二人は自宅で送別の宴を張ってくれた。                                             私は、加州でバイク販売会社を発足、111日、創立パーティを開いた。今度は、私が訪問してディーラー内定の諸君や雑誌関係者等、 米国人の方が多かった。それから東部に転じて、翌年3月、ニュージャージー州にもバイク販売会社を作った。 一年間に会社三つをでっち上げた訳で、些かくたびれた。                                                                                   その後暫く日本にいたのだが、1973年、米国出張、シカゴに一拍した。 幸い先輩と連絡が取れ、地図片手にその新居を訪れた。シカゴ界隈の人々の夢は、ミシガン湖の辺りに居を構えることである。彼らの家は正にミシガン湖畔の豪邸で、先輩の成功ぶりを示していた。日曜日なのに、何度か電話に呼び出され、その会話からも、仕事の順調さ が窺えるのだった。            更に下って1983年、私はBMW に転じて東京暮らし。九学同窓会には毎年出ていた。私は、12歳から18歳までの六年間を九学の中学、高校で学び、18歳から24歳を東京大学で過ごして、 教養学部、教育学部、法学部を終了した。どちらも六年間を送っただが、九学への思い入れの方が遥かに強いのはどうしてだろう?

 1990年頃。中学で同級だった堤達也君。 最初商社に勤め、その後瓶類を製造・販売する会社を起こしていた。ある日、彼との話の中で、米国の見本市に出品し、商社マンにアテンドして貰うとの事。私は言った。「総合商社は、明治日本が急速に産業近代化を進めるために作った日本独特のモンで他国にはなか。彼らが一番理解し信用するのはメーカーの社長バイ。主がいけ!」。彼は、米国事情がわからん、とか英語が出けん、とかためらった。私は続けた。「九学で本物の英語習うとれば心配なか。米国事情には精通した先輩がおられる」。彼は渡米し、先輩宅で数日の特訓を受けた後、見本市に出たのだった。                                               お会いしてからもう半世紀。顔付き合わせて話したのはたった3回だけ。だが記憶は鮮明だ。先輩とジーン、ご存命でお元気な事を祈るのみである。

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種子島経氏(S6回・1954年卒):九学中高で学び、東京大学教育学部・法学部を卒業後に川崎航空工業に入社しアメリカ・ドイツなどに赴任。その後、BMW東京()社長として活躍。2001年退職。現在は兵庫県明石市在住。

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