おしらせ
花岡興史氏(S32回卒)の研究内容が『大日本史料』に掲載
[2024-07-18]
九州大比較社会文化研究院学術研究者の花岡興史氏(S32回卒)が以前に調査して朝日新聞やテレビなどで全国的にたびたび紹介された、肥後宗像家文書の発見と研究内容がこのほど東京大学史料編纂所発行の『大日本史料』に掲載されました。
『大日本史料』は明治34年(1901)から編纂が続けられている日本史の史料群で、奈良時代の『日本書紀』から『日本三大実録』まで続く六国史の後の国史編纂事業を継承する歴史的な書物です。同窓会としても実に名誉なことです。
世界文化遺産の宗像大社(福岡県宗像市)の大宮司、宗像氏貞(1545~86)の後妻とみられる「宗像才鶴」が、女性では無く石見国(現在の島根県益田市)から来た益田景祥だということを証明した小早川隆景書状と益田親子が吉川元春・元長に宛てた書状2点の発見は、秀吉の九州平定や宗像家の研究の発展につながるものとして、花岡氏の功績が高く評価されています。
花岡氏は九州大学で服部英雄教授(前くまもと文学・歴史館長)に師事し、日本史学を学び博士号を取得、専門は日本近世政治史・外交史・古文書学。現在、九州の歴史研究の若手のリーダーとして注目され、各地での講演や執筆活動などで活躍を続けています。
〇 花岡氏のコメント「自分の発見と研究内容が歴史的な書物である『大日本史料』に掲載されるなんて夢のようです。研究者としてこの上のない幸せです。多良木町や東大史料編纂所をはじめとする関係者の方々に感謝申し上げます」
<朝日新聞DIGITAL (2021年11月25日)>
「秀吉が認めた『才鶴』の謎解明 女性説覆す 肥後宗像家文書に新資料」
世界文化遺産・宗像(むなかた)大社(福岡県宗像市)の大宮司を代々務めた宗像家の当主として、豊臣秀吉から認められていた謎の人物「宗像才鶴」について、熊本県多良木町は24日、山陰地方の武将・益田家からの養子であることを決定づける文書が見つかったと発表した。急死した先代当主の妻という「女性説」もあった才鶴だが、後に「益田景祥(かげよし)」を名乗る男性だったことがほぼ確実になったという。
文書は熊本藩士・宗像家の子孫が同町に寄贈した「肥後宗像家文書」から見つかった。当時、中国地方一帯を支配していた毛利家の重臣、小早川隆景の書状。宛先は不明だが、1586(天正14)年3月に急死した宗像家の前当主・氏貞の遺臣から毛利家に家督についての相談があり、当主の毛利輝元が重臣の隆景、吉川元春と協議して、後継者を送るよう命じたことを伝える内容だ。
後継者を出すよう命じられた相手の名は姓の「田」の字だけが残っていたが、肥後宗像家文書からは元春に娘婿の益田元祥(もとよし)が「宗像家の家督について承りました」と伝える書状も見つかっており、文書を検討した九州大学比較社会文化研究院の花岡興史(おきふみ)さんは「内容を総合すると益田元祥が命じられたことは間違いない」と断定した。
肥後宗像家文書からは一昨年、豊臣秀吉が宗像才鶴に宛てた文書2通が発見されたが、宗像家の系図などに才鶴の名前はなく、氏貞の死後、一時的に家督を継承した妻だと推定された。
しかしその後、北九州市の中世史研究者・藤野正人さんが、吉川元春が病気になった孫の「益田才鶴」に見舞状を送ったという文書を発見。宗像家の系図にも、元祥の次男が宗像氏の養子となったものの、家督を継ぐはずだった兄の急死で益田家に戻ったという記述があるため、才鶴は当時10歳の元祥の次男で、後に景祥を名乗る男性であるという説が浮上していた。
花岡さんは「秀吉配下で九州へ進軍しようとしていた毛利家には、筑前の名家である宗像家を確実に味方にしておく必要があったのだろう」と話している。(今井邦彦)